「大錦津見命」をまつる渡守神社と「須佐之男命」をまつる祇園宮が一緒に祀られています。平安時代につくられた法令「延喜式」にも記載されている古い神社です。
江戸時代の元禄年間(1690年頃)に創建された客殿で、国の史跡に指定されています。素晴らしい眺めは特に1711年、朝鮮通信使の李邦彦が「日東第一形勝」と賞賛しました。1748年、洪景海は「対潮楼」の書を残しています。
毛利氏に滅ぼされた尼子家の過信・山中鹿介が再び挙兵するも、高梁川阿井の渡で討たれ、静観寺で本陣を敷いていた将軍足利義昭が首実検をしました。
鎌倉時代の文永年間(1270年代)に創建され、釈迦堂と堂内の木造阿弥陀三尊像・木造法燈国師坐像などが国の重要文化財に指定されています。
「潮待ちの館」の愛称を持つ当館からは、瀬戸内海を代表する「名勝鞆公園」や四国連山を眺望できます。史跡「朝鮮通信使遺跡」県史跡「備後安国寺」「鞆七卿落遺跡」等の歴史資料、鯛網や市無形民俗文化財の「お弓神事」「お手火まつり」等の民俗資料を展示しています。
坂本龍馬と海援隊士を乗せた船が鞆の浦沖で紀州藩の軍艦と衝突し、沈没したのが「いろは丸」。その一部が引き上げられ、ここに展示されています。
【伝説】むかし近江の国の藤原正道という武士が,安芸の宮島へ参拝しての帰り,この島へ船を寄せた際,誤って家伝の宝刀を海に落としてしまいました。正道は刀を拾ってくれるよう土地の人に頼みましたが誰も鱶(ふか:サメの一種)を怖がって名乗り出ません。 正道は“誰も刀を拾えるものはいないのか!鞆の海人もたいしたことは無いものだ”とあざけりました。それを聞き,一人の若者が郷土の誇りを守るため,その大役を引き受けると申し出ました。若者は海に飛び込み,やがて刀をくわえて上がってきましたが,既に足は鱶(ふか)に喰いちぎられ,刀を渡すと息絶えてしまいました。正道はこのありさまを見て悲しみ,弁天島に十一重の石塔を建て供養したといわれます。
(出典:ふくやまイベントガイド)
1619年(元和5年)水野勝成が備後10万石の領主となって築いたお城です。伏見櫓,筋鉄御門は共に国の重要文化財となっています。天守閣の内部は,歴代藩主の遺跡や資料のほか、考古・歴史資料などを収蔵・展示する博物館として公開されています。
明治維新前夜、尊皇攘夷を主張する三条実美ら7公卿は、会津や薩摩などの公武合体派に追われ長州を頼って都落ちしました。その時立ち寄った鞆の名家です。
【伝説】応神天皇の頃,百済よりの使節の接待役,武内臣和多利と官妓,江の浦は役目を忘れて毎夜この橋で恋を語り合っていました。それが噂になり二人は海に沈められました。それ以来密語の橋と語りつがれています。
シーズンには15,000uの園内に280種5,500本のばらが咲き乱れる市民の憩いの場。毎年5月中旬には、この公園を中心に「福山ばら祭」が開催されます。